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逃だすことは恥じゃない。看護師をやめる前に職場を異動した私の話~人生奮闘記:番外編~

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上司と私の奮闘記
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はい、どーも、とびらです!

今回も番外編シリーズです。前回の記事で私の新卒から3年間の職場と精神疾患を発症した経緯について書きました。その最後の方にちらっと載せていたのですが、私は辞める前に職場を移動しています。今日は仕事をやめる前に休職して、異動した話をしていこうと思います!

前回の記事はこちら⇒(【黒って300種類あるねん】ブラックよりもさらにダークな漆黒の病棟生活を大暴露!~人生奮闘記:番外編~

前回の記事を読まなくても読めますが、読んでいただいた方がより内容が伝わるかなと思います。

こんな人に読んでほしい

  • 今、看護師をやめたいと思っている
  • イジメや理不尽な環境で毎日苦しい
  • 休みの日でも仕事のことばかり考えてしまう
  • 転職に踏み出せない

もし当てはまるならちょっとだけお手伝いができるかもしれません。

私が異動した話

異動することになった経緯

新卒から3年間、急性期病院で働いていました。病棟の忙しさやスピード感は嫌いではなく、むしろ好きでした。流れ作業のように患者が入って出ていって、手術を回していく、そんなリズムは多忙でしたが自分の性に合っていたと思います。

しかし、そこでの人間関係がうまく構築できず、イジメやイビリの対象になり、仲の良かった同期や守ってくれた先輩も退職や異動で相談できる人や頼れる人が消えていってしまいました。
この時に出した辞表は突き返されて、うつ病、適応障害からくる睡眠障害、手の震え、難聴など精神的に潰れてしまいました。

精神的に潰れると、まともに働けなくなりましたので、上司の方から「辞めるか」と辞職を促されました。しかし、看護部長のご助力もあり、急性期病院から回復期病院へ移動することになりました。

※回復期病院とは、手術などを終えた患者が治療を終え、在宅復帰をするために入院する病院のこと

退職ではなく異動を希望した理由

退職する気満々だったのですが、異動していいという事だったので異動を選びました。

理由は、2つあります。

同じ法人内での異動であればキャリアや役職、有休などを引き継げる

つまり、給料が下がることがない。夜勤もすぐ入れるので手取りで15万円しかない生活がなく過ごせます。そして、有休などもそのまま引き継げるので半年間有休がないなんてことはありませんし、5日しかもらえないというわけでもないです。

②面接がない

履歴書を書いたり面接をしたりと言うのは非常にめんどくさいですよね。メンタルもその当時はしんどくて新しい環境に行こうと思って落とされたらどうしよう。とかなりネガティブになっていました。

異動でよかったこと、困ったこと

異動してよかったこと

人間関係が良好だった

もともと働いていたところがかなり劣悪だったのもありますが、移動先は挨拶をすれば返してくれて、分からないことを聞いても舌打ちをされたりしなかったです。
2回目に聞かないようにメモを取っていたら「偉いねぇ、聞いてくれていいのに」と言ってくれたのを覚えています。

休憩が取れる

普通に仕事をしていただけですが、急性期のリズムが抜けず非常に早く仕事が終わっていました。休憩室にいてナースコールが鳴りやまなくても「行かなくていいよ」と言ってもらえました。

また、先輩であろうが、役職者であろうがナースコールは全員でとっていたので業務も比較的まんべんなく回っていた気がします。

ほぼ毎日定時で帰れる

先述した通り、急性期のリズムでこなしていれば午前中に記録が終わります。昼からずっとナースコールを取ったり、ほかの人の手伝いをしたりしても時間が余ります。退院支援書類や委員会資料作成、勉強会資料作成も業務時間内にできました。分からない疾患や患者の持参薬の薬効なんかを見る時間ができて今までよりゆっくり患者の情報を取れました。

異動して困ったこと

物品が違う

私のところだけかもしれませんが、同じ法人内でも病院の規模や役割によって使用している物品が違いました。

特に手袋が顕著でした。移動先ではコスト削減のため、お総菜コーナーにおいてあるようなペラペラのビニール手袋で排泄交換を回らないといけなかったのでとっても嫌でした。喀痰の吸引もペラペラのビニール手袋でしろと言われたときは気持ち悪すぎて黙って医療用の手袋を使っていました。

職員のスピード感が違う

同期でも全く仕事のスピード感が違いました。同じ仕事を急性期病院から異動してきた子たちとずっと回復期でいる子たちとでは速さが異なりました。
その為、必然的にナースコールを取る回数、内服を捌いたり、患者さんの薬を分けたり、入院や退院の書類作成をすることが多くなり、仕事量が増えます。

ただ、得意不得意があるのバランスはとれていたように感じます。

患者家族と話す機会が多い

得意不得意の話ですが、私はあまり患者や家族と話すのが得意ではありません。問診のように必要な情報だけ取ることは得意なのですが、会話の中から介護状況で困っていることや、退院に向けての心境などを聞くのが苦手でした。

入院時のアナムネ(住所や電話番号、家族構成、主な介護者、既往歴)を取るのは誰よりも早く確実に取れるのですが、面会に来た家族と日常会話から職業や最近の様子なんかを聞くのがとってもとっても苦手で、元から回復期の病院で働いているスタッフが上手に情報を取って心的フォローをしているのを見て「すごいなぁ…」と思っていました。

3ヶ月の休職

異動後しばらくは普通に働いていました。回復期の大変さはありましたが、緊急入院もなければ手術もないので個人的には業務は楽に感じていました。

家族や患者とのかかわりが多いのと、退院までの時間が長いので係る期間が長いのは嫌でしたが。人間関係が良好だったので気分はすごく楽でした。

ですが…環境改善がされたところでさぁ働けると思っていたのですが
自分の精神はついてきませんでした。

治らない精神疾患

急性期病院で働いていた時に比べて自傷行為は落ち着いて、内服治療も継続していましたがなかなか本調子にはなりませんでした。

慣れない環境、求められる中堅としての役割、改善が見られない症状への焦りなどいろんなことを考え込んでいました。

特に、誰にプレッシャーを掛けられたわけでもなく、自分で勝手に思い込んで焦って追い込んでしまったなと今なら思います。

結局、うつ症状や手の震え、睡眠障害を薬で抑えながら仕事ができるようになるまで3か月ほど休んだ気がします。

退職を選んだ私

通院回数も減り、もうよくなったと思っていました。内服もなくなり異動してから2年間働きました。

しかし、
コロナの影響で病棟はぐちゃぐちゃ
面会ができないからと1日に何度もかかってくる家族からの電話
帰りたいと叫ぶ認知症患者
殴る蹴る、首を絞めてくる脳疾患患者
家族への連絡や退院書類を全て丸投げにしてくるリハビリスタッフ
いきなり掛け持ちにされた委員会と新人教育係
「仕事が早いから」とどんどん任される仕事

なんだかデジャブだ。あの日々が繰り返されようとしていると思うとストレス解決能力の低い私はただため込んで一気に爆発する方法しか取れず、あえなく撃沈しました。

手が震えて、仕事に行こうとすれば吐き、何もしていないのに涙が流れてくる、家に帰ってもナースコールの音が離れない。耳鳴りがずっとして頭が痛い。睡眠薬を沢山飲んでも目が覚める。

そろそろ限界だなと思っていた時に突然右耳からの音が聞こえなくなりました。突発性難聴です。今は治りましたが当時はかなり焦りました。30%の確率で聴力の回復が永遠に望めなくなるのですから。

もうその時点で退職の意志を示しました。上司も何も言うことなく辞表を受け取ってくれたので私の看護師人生はいったんここで終わりです。

私の後悔

沢山あるのですが、まず急性期病院で働いている時に頑張りすぎなければよかったという事が1番の後悔です。ここですぐに異動や退職をしていればきっと今も私はどこかで看護師をしていたと思います。

辞めた当初は看護自体も大嫌いになりましたし、一生この仕事につかない!と思っていました。

しかし、離れてみて、こうして記事にすることで自分の状況や心情を整理していくことで今でも看護は好きだな、また働きたいなと思っている自分に気づきました。

今は個人事業主をしながら週3日働きに行こうと思っています。

今辛いあなたへ

もし、この記事を読んで「私もそうだ」と思う人がいれば、一番伝えたいことがあります。
”本当にしんどい時は自己判断してはいけない”という事です。

まだ大丈夫、みんな頑張っている。など視野がかなり狭くなっており、自分で自分のことを変に評価してしまいます。

誰にも相談できなくて、辛くて苦しい、迷っている人は一度休んでください。

逃げる事は悪くない。自分に合う環境を探すのは前向きな逃げだと私は思います。何も行動せず、埋もれていく、潰れていっても職場は何もしてくれないのですから。

私のセカンドチャレンジ

人間関係がうまくできないので、もう一人でやっていくしかないと思いました。

ガツガツ働くのも組織で働くのも誰かと何かをすることが向いていないという事が社会に出てわかったことです。なので、私は社長になろうと思いました。

メンタルよわよわのゆとり最強世代ですが、何か私でもできること、私が私をカッコイイと思えることをつかむまであがいていこうと思っています。

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